FC BARCELONA とは?
CLUB DATA
創  設 1899年
住  所 Avenida Aristides Maillol s/n 08028 Barcelona
Webサイト http://www.fcbarcelona.com/
スタジアム Camp Nou/カンプ・ノウ (98,600人 収容)
リーグ優勝 1928−29、1944−45、1948−49、1952−53、1959−60、1973−74
1984−85、1991−94、1998−99
国王杯(Copa del Ray) 1909−10、1911−12、1912−13、1919−20、1921−22、1924−25
1925−26、1927−28、1941−42、1950−51、1951−52、1952−53
1956−57、1958−59、1962−63、1967−68、1970−71、1977−78
1980−81、1982−83、1987−88、1989−90、1996−97、1997−98
チャンピオンズリーグ 1991−92
カップウィナーズカップ 1978−79、1981−82、1988−89、1996−97
UEFAカップ 1957−58、1959−60、1965−66
Camp Nou Estadio Camp Nou

 1957年から本拠地となった、FCバルセロナのホームスタジアム。欧州最大の収容人数を誇る。1982年のスペインワールドカップの際に収容人数を120,000人に増やしたが、最近になってFIFAの規則に従うために98,000人にカットされた。

 また、カンプノウはサッカースタジアム以外にも、FCバルセロナ博物館が併設されており、バルサの栄光の歴史が展示されている。

 「Camp Nou」の意味は、英語の「New Ground」にあたる。(Camp=Ground、Nou=New)そのため、外国人の中には「ノウ・カンプ」と呼ぶものもいるが、カンプ・ノウが正しい呼び名である。
カタルーニャ地方

(カタルーニャ地方の気候)


  スペインの北東部にあるカタルーニャ地方はバルセロナを擁するスペイン最大の商工業地帯となっている。その生産能力は実にスペインのGNPの20%を占めている。バルセロナ北の地中海海岸から始まり、バレンシアの海岸を通って南部アンダルシアにのびる全長1800キロに及ぶ海岸線は、太陽の光にあふれている。紺碧の海と抜けるような青空が果てしなく広がり、美しい海岸と白い家並みが続き、温暖・湿潤な冬と乾燥した夏の地中海性気候で非常に過ごしやすい地域である。そのため、ヨーロッパ有数のリゾート地となっている。


(カタルーニャの歴史的背景)

  カタルーニャ地方は多民族国家であるスペインにあって、伝統的に民族意識と独立心の強い土地柄となっている。スペインの一地方に甘んじるをよしとせず、その結果多くの摩擦や確執、抵抗が歴史に刻まれた。その最たる例がスペイン市民戦争〜フランコ独裁政権時代である。
  1900年代初頭は、スペイン各地でアナーキストや労働者、農民の蜂起が相次いだ。その結果、1931年に共和派が選挙で圧勝し、それまで親政を行ってきたアルフォンソ13世が国外追放となり、王政が廃止された。ところがこの新政権が脆弱で、再びスペイン国内は混乱。1936年に市民戦争に突入した。この内戦は3年あまり続き、フランコ将軍が共和国軍をうち破ったことで終焉を迎えた。
  フランコはマドリードに本拠に置き、独裁政権を布いた。1975年にフランコが没するまで続いた独裁政権は、カタルーニャ地方やバスク地方などに対し服従を求め、文化・言語などに対して非常に厳しい弾圧を加えた。


(カタルーニャの現在とFCバルセロナ)
  このような歴史的背景があるためか、カタルーニャの人々はカタルーニャ語に対して無限の誇りを感じている。カタルーニャ地方では役所や学校の公文書も地名も表記もカスティーリャ語(スペイン語)との2言語併用を経て、カタルーニャ語に統一され、学校教育でもカタルーニャ語が地歩を固めている。
  カタルーニャの人々は、FCバルセロナに対しても言語と同様の誇りを持っている。フランコ独裁政権時代、文化・言語を禁止されたカタルーニャの人々にとって、FCバルセロナは唯一のシンボルだったからである。


  以上のように、バルセロナのあるカタルーニャという地方は、スペインの中でも非常に特殊な地域だといえるであろう。
FC バルセロナ
(FCバルセロナ誕生〜黎明期)

  FCバルセロナ発足のきっかけを作ったのは、スイス国籍のハンス・ガンペールである。彼は1899年10月、『ロス・デポルス』紙にサッカー選手募集の広告を出した。こうして集められたメンバーを元に1899年11月29日に発足したのが、FOOT−BALL CULB BARCELONAである。ユニフォームの色は、ガンペールの故国、スイスのティチーノ州の色、青とえんじ(Azulgrana/アスルグラナ)に決まった。初代会長はイギリス人のウォルター・ウィルドが就任した。
  1906年にはクラブ名をカタルーニャ語のFUTBAL CLUB BARCELONAと改名した。チャンピオンシップ(リーグ戦)が始まる前のスペインにおいて、バルセロナは常に最高のチームだった。1920年代には国王杯優勝の常連となり、チームの会員数も増え、そのたびに大きなスタジアムへと本拠地を移した。

  バルセロナはスペインで初めてプロ化を行い、1929年から始まったチャンピオンシップで第一回優勝を果たした。だが、不景気が続いた1930年代には、主力選手を放出せざるを得なくなり、スペイン内戦が始まるとチームは崩壊寸前にまで追い込まれた。1940年になるとスペインサッカー協会は、バルセロナの会長にフランコ派のエンリック・ビニェイロを指名、彼はチーム名を直ちにカスティーリャ語(スペイン語)のCulb de Futbol Barcelonaに改名した。こうして、マドリード体制に対する40年に及ぶサッカーの抵抗の歴史が始まる。

(忍耐の時代〜フランコ時代)

  フランコ政権下において、カタルーニャ人は集会をすることも、カタルーニャ語を話すことも禁じられていた。唯一スタジアムにおいてのみ、自分たちがカタルーニャ人であることを誇り、大声で母国語を口にすることが出来たのである。その高揚感はフランコのお膝元のクラブであったレアル・マドリーが遠征してきたとき頂点に達したという。バルセロナは1945年からの8年間で実に5回ものリーグ優勝を誇り、カタルーニャの人々の愛国心を十分に満たした、しかし、それ以降になると運もフランコも少なからずマドリーに味方し、レアル・マドリーの後塵を拝するようになる。チャンピオンズ・カップ(現チャンピオンズ・リーグ)が始まるようになるとさらにその傾向は目立つようになる。レアル・マドリーが1955−56、56−57、57−58、58−59、59−60と5年連続でチャンピオンズ・カップを獲得したのに比べ、バルセロナはあと一歩のところでヨーロッパチャンピオンのタイトルを逃し続けた。

(ヨハン・クライフとマラドーナの入団)

  それでも、地元産業の繁栄と忠実な会員(ソシオ)の懐に支えられて、バルセロナは劣等感を克服すべく、巨額の資金を使い続けた。カンプ・ノウのスタンドを増設し、2軍専用スタジアムも建設した。それでもベルナベウ(当時のレアル・マドリード会長)にはかなわなかった。1970年には世界最高額でヨハン・クライフを獲得。監督にも彼のアヤックス時代の恩師、ニヌス・ミケルスを据えた。1980年始めになると、ディエゴ・マラドーナをやはり世界最高の移籍金で獲得し、監督には彼の恩師、セザール・メノッティを監督にした。さらにはイングランドからゲーリー・リネカー、マーク・ヒューズなどを獲得するも、チャンピオンズ・カップは獲得できなかった。

(黄金時代〜クライフのドリームチーム)

  しかし、屈辱の時代も、1988年にヨハン・クライフが監督としてバルセロナに戻ってきたことで終焉を迎える。クライフは地元出身の選手と海外のスター選手とを同等に扱った。それがチーム力を上げるという確信があったからである。若き司令塔ジョゼップ・グァルディオラはミカエル・ラウドルップやストイチコフに並ぶ展開力を身につけ、ホセ・マリア・バケーロはロナルド・クーマン程に力強さを身につけた。
  こうして、確実に進歩したバルセロナは1992年、チャンピオンズ・カップ決勝戦で聖地ウェンプリー(イングランド)でサンプドリア(イタリア)との対戦に挑んだ。クーマンのFKによる決勝点で、バルセロナは遂に40年間待ち望んだチャンピオンズ・カップのタイトルを手にした。また、リーグ戦においてもバルセロナは1990−91、91−92、92−93、93−94と4年連続で優勝し、クライフのバルセロナはすべてを手に入れた。
  しかし、栄光の時代も長くは続かなかった。1996年、クライフと当時の会長であるヌニェスの関係は悪化、クライフは解任される。後を引き継いだのはボビー・ロブソン。彼は、この年加入したロナウドを戦術の中心に据え、国王杯とカップ・ウィナーズ・カップを手にしたが、リーグ優勝はレアル・マドリーに奪われた。ロブソン政権はわずか1年で終わり、後任にはオランダ人のルイス・ファン・ハールが就任した。

(オレンジ色に染められたアスルグラナ〜ファン・ハールのオランダ化政策)

  就任初年度の1997−98シーズン、ファン・ハールは独走状態でリーグ優勝を遂げたが、チーム内は不協和音が満ちあふれたシーズンだった。選手を戦術で縛り付けるファン・ハールのやり方に選手が反発したからである。
  翌シーズンになるとファン・ハールはオランダ人である、コクー、ゼンデン、クライフェルトらを補強すると同時に、スペイン人であるデ・ラ・ペーニャ、フェレール、アモールと守備の要ブラン、ポペスク、コートを放出した。また、シーズン途中にはアヤックスからデ・ブール兄弟を呼び寄せた。この行為に、地元カタルーニャの人々は怒り狂った。カタルーニャ人の象徴であるFCバルセロナをオレンジ色(オランダ色)で汚したと感じたのである。
  結局このシーズンも、負傷していたグァルディオラの復帰によりリーグ優勝を飾り、ファンの怒りも収まったが、ファンからの人望は失われる一方であった。

  あけて、99−2000シーズン、さらにオランダ色を強めたファン・ハールは3年連続優勝を狙うべく、新シーズンを迎えた。しかし、このシーズンは、一時期はスペイン人が一人もいないメンバーを組み、ファンから反感を買ったり、リバルドとは戦術を巡って対立したり(彼は左WGに固定されるのを嫌がった)などのトラブルもあって、最終的にはラコルーニャに優勝をさらわれた。ヌニェス会長は辞任。それに習ってファン・ハールも辞任した。
(悪夢のガスパール時代)(04/04/03)

 ヌニェスの辞任を受けて行われた会長選挙に勝利したのは、ヌニェス時代に副会長を務めたジョアン・ガスパールだった。しかし、ここからバルサの歯車は狂い始める。まず、同時期に行われたレアル・マドリーの会長選挙に勝利したフロレンティーノ・ペレスによって、バルサのシンボルの一人であったルイス・フィーゴを奪われる。もっとも、フィーゴの移籍については彼自身が金に心を奪われていたため、ガスパール一人の責任とは言い難い。

 就任初年度にガスパールが選んだ監督は、ロレンソ・セラ・フェレール。かつて、ベティスを率いた経験もあるバルサの下部組織を担当していた人物である。もっとも彼の監督就任は、会長選挙終了時にめぼしい監督が残っていなかったという事情にもよる。彼はリバルドに自由を約束し、チームの中心に据えた。また、ガスパールはフランス代表エマヌエル・プティ、オランダ代表マルク・オーベルマルス、デ・ラ・ペーニャ、ジェラール、アルフォンソ、デュトルエルを補強し、タイトルを狙った。しかし、監督はビッグクラブを率いるには経験不足、補強した選手は機能せずで、セラ・フェレールは31節であえなく解任された。後任は、現役時代はバルサでデランテーロとして栄光を築き、クライフ時代にはアシスタントコーチを務めていたカルレス・レシャックである。結局、00−01シーズンは最終節にリバルドが見せた伝説的なプレーにより、チャンピオンズリーグ出場圏内となる4位に終わった。また、このシーズン終了後には、クラブの象徴であったジョゼップ・グァルディオラがチームを退団している。

 明けて01−02シーズン、ガスパールは、ハビエル・サビオラ、クリスタンバル等の将来性ある若手に、パトリック・アンデルソンやロベルト・ボナーノといったベテラン選手を絡めた精力的な補強を行う。監督もカルレス・レシャックを続投させ、チームの熟成をはかった。しかし、またしても4位に終わり、このシーズンもファンを落胆させるだけだった。

 02−03シーズンになると、ガスパールは最後の大博打に出た。かつてファンから反感を買ってチームを退団した、ルイス・バン・ガールを呼び戻したのである。しかし、バン・ガールの就任を受けて、彼とは犬猿の仲であるリバルドがチームを去ることになる。3年連続でメガ・クラックの退団である。このシーズンの補強の目玉はリケルメ&メンディエタであったが、自分の型に選手をはめ込むバン・ガールでは、彼らの実力を十分に発揮させることは出来ず、チームはまたしても迷走した。
 結局、バン・ガールは年明けに解任され、チーム立て直しの職人であるラドミール・アンティッチを迎える羽目になる。困難な状況の中、アンティッチは自分の責務を良く果たし、チーム状況は上向いていった。しかし、前半戦のツケがたたり、バルサは6位でシーズンを終え、ついにチャンピオンズリーグの出場権を失った。
 また、チームを失望をもたらした上に、莫大な負債を背負わせた張本人であるジョアン・ガスパールは、2月13日に責任を取って辞任している。

 悪夢の3年間はバルサに深刻な状況をもたらした。対戦相手チームは、もはやバルサを恐れることなく勝ちを狙うようになり、バルサファンのプライドはスタズタにされた。また、毎年超一級品のスター選手と契約をすることで、銀河系選抜軍団と呼ばれるまでに至ったレアル・マドリーとの格差は、決定的なものになってしまった。

 この容易ならざる状況を再建する任務は、03−04シーズンに向けて行われた会長選挙の勝者に委ねられることになった・・・・。

☆★☆参考文献☆★☆
European Football−THE ROUGH GUIDE 日本語版 (ダイナゲイト 株式会社) 
WORLD SOCCER DIGEST連載 バルセロナ物語 (株式会社 日本スポーツ企画出版社) 
文化と歴史で学ぶ スペイン語 (丸善 株式会社)
      他
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